すごい映画だった。重すぎるテーマ、女優チョン・ドヨンの迫力。絶望と悲しみ、つかの間の癒し、そして怒り。様々な感情が2時間15分間に凝縮されている。
シネは夫を亡くし、一人息子ジュンを連れて夫の故郷の密陽(ミリャン)に引っ越してきてた。ところが、ジュンは誘拐された上に殺されてしまう。犯人は身近な人物だった。絶望したシネは宗教に救いを求め、一時は心の平安を取り戻す。しかし、あることがきっかけでシネの絶望は限界を超えて・・・。
見栄っ張りなシネ。
息子を失ってしまったシネ。
宗教に裏切られたと感じるシネ。
絶望のあまり精神を病んでしまったシネ。
そんなシネの側にずっと寄り添っていた男がいた。男の名はジョンチャン。ジョンチャンはシネに好意を示すのだが、全く相手にされない。することなすことが少しづつずれているのだ。その「ずれ」は揺るがない一貫性を保ち、見ている方にイタイ印象さえ与える。
青空が印象的な映画だ。太陽の光が窓越しに差し込むシーンから始まる。そして、ストーリーにしばしば日差しや光が挿入さて、ラストもまた日差しで終わる。
途中、日差しに手をやりながら、シネがこんなふうに問うシーンがある。
이기 뭐가 았어요? 그냥 했빛이예요,했빛.
(ここに何があるの?ただの光よ、光)
確かにただの光に過ぎないかもしれない。しかし光に意味を与えるのは自分だ。見る方が光を感じれば、他人には輝いてみえなくても、輝いているものもあるかもしれないのに。シネは気づかない。
「赦し」の意味も考えさせられる。
이미 용서를 얻었는데 내가 어떻게 다시 용설를 해요?
(既に許されている人間を、私にどうやって許せというんです?)
この時点でシネは、既に神を疑っている。なぜ?なぜなの?私が許していないのに何故?個人的には、このセリフが一番響いた。
後姿もまた印象的だった。人は正面よりも後姿をよく見られていると聞いたことがある。映し出されるチョンドヨンの背中は、期待や焦り、イライラ、ソワソワ、絶望を表現する。伝わってくる。背中だけでこれほど演技できる俳優は多くはないだろう。
すぐ側にある優しい日差しに気づかないシネ。ラストで暖かい「光」に気づくことができただろうか。
ちなみに「シークレット・サンシャイン」が「密陽」を英語にしたものだということに、私は最後まで気づかなかった。